国敗れて山河あり


*国敗れて山河あり
東北関東大震災のために、今年の3月ほど涙を流した月は、幼少時を除いてなかったのでは?
私が勤める中小企業団体の事務所は被災地にも数多くあり、事務所も流され会員の社長さんや同僚ともいえる職員からも死亡や行方不明が多く出ています。
本当に胸が痛みます。
巨大地震襲来という国難と、仕事からの疲れも出てきましたので、3月25日(金)〜27日(日)は久しぶりに鳥取に帰りました。
1泊目は米子市の両親の隠居先でした。
写真は母の知人が毎年その歳の干支のぬいぐるみを編み物で作ってくれるらしく、母の車のダッシュボードには昨年の干支だったトラのぬいぐるみが置かれています。
言うまでもなく今年は兎年なので、ウサギちゃんのぬいぐるみ(それも2羽!)編み物です。
悲しいことが発生した3月ですが、このぬいぐるみ編み物を見たら心が癒されました。
久しぶりの鳥取帰省+ブログ更新ですので、鳥取市近郊の景色を一気に紹介します。

米子市から鳥取市に向けて東上してますが、国道9号線でも渋滞がよく発生していた鳥取県東伯郡琴浦町の浦安付近を回避する、「東伯中山道路」が先月開通したおかげで90数キロ離れている、鳥取市米子市間を1時間30分で移動できるようになりました。
山陰道が全通したら同区間は1時間で自動車で移動できると思います。
写真は鳥取県気高町にある酒ノ津漁港です。のどかな漁港です。
この港の東には昔家族でよく行った「水尻海水浴場」があり、さらに東には「小沢見(こぞみ)」海水浴場があります。
こちらの方は私自身が新たな家族を作ってから、毎年海水浴に行っています。

酒ノ津港防波堤から見る日本海です。
今大津波が来たら大変です。
日本海側でも津波対策は立てているのでしょうか?
風が強いため波が結構荒かったです。
大波が来るたびに大津波の映像を思い出し、怖くなってきました。

この道路は元の国道9号線でした。
昔は酒ノ津港がある集落を国道9号線が通っていたわけです。
今の国道9号線は集落より上の部分を通っていますが、山陰道がいつの日か完成すれば、山陰の東西を結ぶ道路の大動脈は、さらに山側(つまり現在の国道9号線より南側)に移動するということです。

この酒ノ津隧道は完成したのが結構新しい(昭和30年代後半?)なので、不気味さ怖さは微塵も感じません。
以前「鳥取・八尾日記」でも特集した、国道373号線の鳥取県岡山県の県境である「志戸坂峠」にある、373号線旧道の「志戸坂隧道」は本当に恐怖そのものでした。
ただし酒ノ津隧道も幅は狭いので、大型車同士の行き違いは難しいでしょう。
もっとも交通量も少なく、大型車はさらに走っていないので、問題ないと思います。

水尻海水浴場付近の「危険」を訴える標識です。
前述の通りこの日は波が高かったので、海にはみだりに近づかないようにしましょう。

神話で有名な「白兎海岸(はくとかいがん)」です。
寒いにもかかわらず、9号線沿いの道の駅には沢山の観光客が来ていました。
海岸から少し離れたところにある島は「沖ノ島」で、因幡の白兎がこの島に流され、ワニザメを騙して彼らの背中を伝って陸地に帰ることができましたが、白兎に騙されたと気付いたワニザメは、白兎の体毛を剥いでしまったわけです。

中学生の時に友人と海水浴に行って、私自身も沖ノ島まで泳ぎ着きましたが、結構距離があります。
平成20年(2008年)3月に職場の旅行で愛知県の知多半島沖合いにある「日間賀島」に行った時、民宿「徳川」の女将さんが「この前旅行で白兎海岸に行ったけど、綺麗だったわ〜」と喜んで下さっていました。
喜んでもらえたら本当に鳥取県人冥利に尽きます。

海岸沿いにはこのような看板もあります。
大昔から鳥取県内ではこの看板が立っています。
幼少の時はこの看板に書かれていることの意味がさっぱり理解できませんでした。
言うまでもなく拉致事件で意味がやっと分かったわけです。
もちろん拉致だけでなく、密入国や密輸の問題もあるでしょう。
日朝間には大きな問題があるだけに、拉致問題や核開発問題を早急に解決して、平和な東アジアを築いてほしいと思います。

白兎海岸から、鳥取市鳥取砂丘方面を望みます。
写真左の島は「大島」で、その右となりの岩礁は「房島」だったと思います。
遠くには鳥取市福部町の港町である岩戸や、遠くは「山陰松島」と言われる鳥取県岩美郡岩美町方面も見えます。
夏になったらここは海水浴客で溢れていますが、昔は10数軒もあった海の家が、今では2〜3軒しかないらしいです。

今年の干支は兎年ですので、白兎海岸の南側にある「白兎神社」が今年は大盛況です。
参道の鳥居前では「うさぎ焼き」というものが売られていました。
タイ焼きのウサギ版でしょうか?
鳥取市のケーブルテレビ「いなばぴょんぴょんネット」で放映されている「こんにちは鳥取市」にも、このウサギ焼きや白兎神社の盛況ぶりが放映されていました。
恋人とともにお参りする神社の○○○選にも入ったらしいです。

白兎神社本社向いにある、「御身洗池(みたらしいけ)」です。
別名「不増不減の池」とも言われており、常に池の水量が一定らしいです。
この池で因幡の白兎は大黒様から言われた通り、皮だけになった体をこの池で清め、蒲の穂綿(がまのほわた)に包まったたら、元の白兎に戻ったとのことです。
これが有名な「因幡の白兎」伝説です。
でも今の池で体を洗っても、効果は無さそうですが。

鳥取砂丘に程近い、渡辺美術館の北側にある「いかにも鳥取の家」と言える長屋です。
外壁をトタンで包まれ、玄関は小さい扉となっています。
昭和40年代後半の建物だと思われますが、結構入居率は高いみたいです。
気候が違うので八尾市の長屋(八尾市の場合は平屋の長屋も多い)とは全く雰囲気が違います。
地域の気候や文化風習によって建築物には違いが出ますので、本当に面白いです。

鳥取市円護寺(鳥取城跡がある久松山の北側裏手)にある、戦国武将の「吉川経家(きっかわつねいえ)公」の墓所の説明です。
戦国時代、豊臣秀吉鳥取城を攻める時「干し殺し作戦」で鳥取城に立てこもる、吉川軍を兵糧攻めで陥落させました。
ただし大将である吉川経家切腹と引き換えでした。
吉川経家公の墓所は綺麗に整地され、公園化しています。

墓所は高台になっていますので、階段を少しだけ上ります。
見上げると見事な菩提樹?が出迎えてくれます。

吉川公の墓石です。
周りは綺麗に掃除されていますが、なぜか墓石前の花筒が2本とも倒れています。
この日は風が強かったので自然に倒れたのでしょうか。
もしくは誰かの悪戯でしょうか。
一応ここから先は原則立ち入りご遠慮下さい地域ですので。
本当に謎です。
写真で見て分かると思いますが、この辺は新興住宅地で、新しい家やアパートが沢山建っています。
墓所の裏側にも家が見えるでしょ。

吉川経家墓所がある久松山(きゅうしょうざん)北側の集落である円護寺から、円護寺隧道を通って鳥取市の中心部側へ移動しました。
山の中腹にある最勝院というお寺から写した、鳥取市街の西側です。
旧市街地とはまた違う、鳥取市の副都心みたいな湖山方面も結構発展しています。
天気が良く、かつ空気が澄んでいたらここから大山が見えるはずです。
このお寺の駐車場付近に、なぜかオバちゃん3人がたむろしていました。
私が前を通るとオバちゃん連中が「こんにちわ!」と元気よくあいさつしてきましたので、私も負けずに「こんにちわ!」と返答しました。
鳥取市のオバちゃんも元気でなによりです。
八尾市内の小学校には「あいさつOSAKA」と書かれたのぼりが小学校の周りに立てられていますが、あいさつは本当に日本語だろうがドイツ語だろうが英語であろうが本当に大切です。

最勝院の駐車場から撮った、雁金山(久松山の西隣)山頂にある「平和塔」です。
お皿を何枚も重ねて串刺しにしたような塔が印象に残ります。この塔が完成したのが昭和30年代末期ですので、私が生まれた時点でこの塔はすでにあったわけです。
平和塔の建設理由は昭和18年に鳥取市を襲った大地震、そして9年後の鳥取大火と続けて鳥取市は災難に遭いました。
もちろん太平洋戦争という悲惨な出来事が二度と起こらないことを祈念する意味もあると思います。
私の母校である鳥取市立南中学校の北校舎からも、この平和塔がよく見えました。
3月11日(金)に東日本を襲った、東北関東大震災のような甚大な災害が再び起こらぬよう、平和塔に対して手を合わして祈ったのは言うまでもありません(涙)。

少し円護寺隧道寄りに戻ると、昭和40年代に鳥取市の象徴である「久松山(きゅうしょうざん」の山頂まで結んでいた、ロープウエイの遺構が残っています。
写真は久松山ロープウエイの「山麓駅」です。
いかにもロープウエイの駅といった感じです。
この駅の下は「ロープウエイホテル」という名前のホテルで、ロープウエイが確か昭和50年(1975年)ぐらいで休止(廃止?)になっても、しばらくは営業しとったような?
もっとも私も当時は幼少なので正確なことは分かりませんが。
なお久松山山頂には、鳥取城の天守がありましたが、落雷で消失しています。
しかし現在でも当時を物語る遺構が多少残っています。
私も3年前、配偶者と息子(当時小学校1年生)と久松山に登り、配偶者の手作り弁当を食べました。
なお久松山は標高263メートルです。
下山後鳥取市街から遠く離れた時、私が「今日あの山に登ったっだ〜」と言っても、配偶者は信じてくれませんでした。
よほど久松山が大阪人の配偶者から見ても「偉大な山」に見えた証しかもしれません。
久松山ロープウエイは短命に終わったみたいですが、鳥取駅からここまで交通の便が悪すぎというのも早期休業廃止の原因だと思います。
ロープウエイが現役の時は、久松山山頂で夏季になればビアガーデンもあったらしいです。
標高263メートルから鳥取市街の夜景を見ながら飲むビールは格別だったと思います。
もちろん当時は高層ビルもそんなになかったので、夜景と言っても見ごたえはなかったでしょうが。
今ではこの山麓駅+ホテルの建物は鳥取市の埋蔵物研究関係の団体用事務所として使われています。

久松山の全景と、麓で独特の美しさを放つ「仁風閣(じんぷうかく)」です。
仁風閣は旧鳥取藩の藩主だった池田家の私邸で、大正天皇鳥取市行幸に来られた時の宿舎になった洋館です。手前の堀は鳥取城守護のための堀の一部です。
久松山の中腹には二の丸などの城があったことを偲ばせる石垣が残っています。
私もたまにこの石垣まで登ってビールを飲みことがあります。
写真右方向(南東)に行けば、吉川経家公の立派な銅像があります。
この写真で見ると、結構鳥取市も文化的な街だと改めて感じました。

さらに南に移動して、鳥取市民の憩いの場である「おうちだに(実際は写真の通り漢字表記)公園」に行きました。
小学生の時に遠足でも行っており、中では小動物も飼育されています。
ここからさらに山道を登ると、豊臣秀吉鳥取城攻めの時に、秀吉が陣地として使った「本陣山(ほんじんやま)」の山頂(標高241メートル)に登ることができます。
本陣山は通称「太閤ヶ平(たいこうがなる)」とも言われ、その名の通り秀吉を示しています。
山頂にはNTTなどの鳥取統制無線中継所があり、山頂にアンテナが建つ姿は久松山とはもう一味違う雰囲気を醸し出してします。
それにしても緊急避難場所看板に表記されている鳥取市の市章、本当に難しいです。
さすがの私も「これを書け」と言われても、書きようがありません。
皆さんも思っているでしょうが、この市章、人の顔にも見えます。
それに引き換え、八尾市の市章は本当に簡単だっちゃー。

統一地方選挙のポスター掲示板も建っています。
前半戦の知事選の候補は現職の平井知事と、対戦候補の山内(やまのうち)さんのポスターが貼られていました。
わが郷土鳥取県を良くするために、両者には建設的な討論を行い、選挙戦を実りあるものにして下さることを期待しています。

近くにはこのようなモダンな建物も。
鳥取県民の建物100選にも選ばれている「グランドアパート」です。
戦前からある建物でしょうか?
かつてはここでダンスパーティーもあったりと、結構鳥取市としては進んだところだったみたいです。
鳥取市の「鹿鳴館」だったりして。
現在も人が住んでいますので、近づいて中を覗くのはやめましょう。
この「グランドアパート」の写真を撮ろうと思ったら、住人が車で帰って来たので「カメラを向けるのも失礼か」と思い、しばらく時間を置いてから撮影しました。
前に駐車されている黒い車が家の人(女性)の所有者です。
機会があれば内部にも入ってみたいものです。
ここ「おおちだに公園」周辺は、この「グランドアパート」以外にも、魅力的な雰囲気を持った建物がいくつかあります。
この辺は山麓部で地盤が強く、鳥取地震でも古い建物が倒壊しなかったので、昔ながらの雰囲気が残っています。

久しぶりのブログ更新ですが。ここで紹介した鳥取の美しい自然や建物を見て、「オレって本当に鳥取県人だっちゃ〜! だってこれらのものを見て、本当に何とも言えない力が、故郷から与えられる感じだけぇ〜なぁ〜」との思いを改めて強くしました。
東北関東大震災で日本は戦後最大の国難を迎えています。
「国敗れて山河あり」という言葉どおり、戦争で負けて復員した兵士が故郷に帰った時、復員兵は「戦争で負けたけど、故郷の山や河は全く変わっていなかった。そして復員(日本に帰国)した私を故郷は温かく迎えてくれた」。
という意味を小学校時代の担任の先生から、教えてもらったことが今でも頭に残っています。
もしこの美しい「鳥取の山河」が戦災や人災で侵されることがあれば、私はこの命を投げ打っても構わないと思います。
東京電力福島第1原発の関係者の献身的活躍を見て、福島の姿を鳥取に置き換えたら本当に気持ちが良く分かります。

私の命で愛する郷土である鳥取が、未来永劫平和になるのなら・・・・と真面目に思います。
この文章を書いていて、大震災の犠牲者や行方不明者、避難地で不便な生活を強いられている方、福島第1原発drわが身を省みず闘っている関係者の姿が頭に思い浮かんできました。
すみません、また涙が出てきました・・・。
日本が早く元気になり、この美しい山河が守られますように心から祈念します・・・。