父上陛下御崩御!


*父上陛下御崩御
1月11日の早朝、私の父親が崩御されました。
御年は81歳と89日でした。
何とか日本人男性の平均寿命(80歳)以上生きれたことが、せめてもの救いです。
1月10日〜11日は私は夜勤だったのですが、11日の朝7時ぐらいに母親から電話があって、「お父さんが亡くなった」との一報があり、私も覚悟はしていたので、「そうか」と答えただけでした。
なお父親の死因は肺がんで、昨年から母親から父親がそのような状況であることは聞いてましたが、「ウチはがん家系ではないのに」という疑問で、私の頭の中は一杯でした。
上の写真は、父親が終末期に使っていたベッド(レンタル)です。
父親も3週間前までは、車の運転をしていて、私も「がんとは言っても、高齢で進行も遅いだろうし、あと数年は生きてくれるだろう」と、淡い期待をしてましたが、病魔はそんなに甘くなかったわけです。
昨年12月に母親から電話があって、「なるべく早く(父親の意識があるうちに)一度は戻ってきて」と懇願されたので、私も両親の家がある鳥取県米子市に戻ったら、父親は会話もできず、もう別人のようでした。
食事も摂ることができず、日増しに痩せて行ったとのことでした。
私も父親を起こす時に、介護実務者研修(旧ヘルパー1級)の資格を生かして、介助できたのが、最後の親孝行だったのかも知れません。

鳥取県生協の、夕食宅配ビラです。
晩年の父親も、この夕食を食べていたのでしょうか?

私の父親は中央大学法学部卒業で、東京で学生時代を過ごしていた時は、錦糸町に住んでいたとのことです。
卒業してからは鳥取県に奉職、最終的には次長まで昇進しました。
ただ父親は県職員としての終盤は、故郷の米子市に住む母親(私から見たら父方祖母)を案じて、転勤願いを出して、米子市で母親と同居する道を選びました。
鳥取市にある本庁(県庁)にずっといたら、知事・副知事を除けば、最高職の部長に間違いなくなっていたみたいです。
もちろん定年退職時には、鳥取県から感謝状も頂いていて、最終肩書は「西部福祉事務所長」となっています。
その後は「天下り?」で、鳥取県立老人ホーム「みどり苑」の苑長に5年契約で再就職して、老人福祉のために尽力してきました。
父親が65歳になろうとした時に、「これで仕事とはおさらば、楽隠居できる」と喜んだものの、父親の苑長が評判良くて、「無断」で任期を2年延長されたとのことです。
さすがに父親もこれにはひっくり返ったようですが、「すでに県知事の承認も受けている」とのことで、父親もさらに2年苑長職に留まったわけです。
それにしても父親は、正規の鳥取県職員として34年、嘱託職員として7年、合計41年も鳥取県のために頑張ってきたのですから、本当に大したものです。

生後間もない。私ことプルルンマツケンを抱く父親です。
どうも宮参りに行く前に撮った写真みたいです。
私は父親が34歳の時に生まれた子どもで、30歳の時に長姉、32歳の時に次姉が生まれてますが、私が3人目にしてようやく生まれた男子だったので、父親も大いに喜んだようです。
私の場合は最初で最後の子どもが、男子であるプルルン裕希だったので、この点は気楽だったかも知れません。
それにしても育ててくれた親との永遠の別れ、本当に寂しいものです。
父親は生前「派手な葬式はいらん、まあ火葬はせんとイケンだろうがな」と言ってましたが、本当に超地味な「お別れ会」となりました。
お通夜はすると思ってましたが、それもなく、なんと火葬場でお坊さんがお経をあげて、そのまま火葬→お骨拾い
となりました。

生前の発言を見事に実行した父親、マジに恰好いいです。
もちろん配偶者の純子ちゃんや、愚息のプルルン裕希も参列しましたが、私は純子ちゃんに「オレが死んだら『献体』に出してくれ」とお願いしておきました。
なお父親の「お別れ会」は、言うまでもなく「密葬」です。
人の上に立った人間ほど、地味なことを好むのだと、改めて思い知らされて、父親からの最後の教えだと確信しています。
今回は暗い記事内容となりましたが、次回はまた明るい話題を提供しますので(父親もそれを求めていることでしょうし)、ブログ友の皆様には大いに期待しておいて欲しいです。